新々Tackmixブログ - 子供の学力が低下するはずだよ
今日の「笑っていいとも」。ランキングバトル・・・で、こんなのがあった。
卒業式にうたう歌ベストテン。
そこに、あの問題作、森山直太朗の「さくら(独唱)」が入っていた。
さて、これが実際には何位になっていたのか?なんと2位だ。
なぜ問題作なのか?
いや、正しくは問題作ではなく、聴く側の理解不足といえる。
去年の4月のブログにもこの件は書いているが、もっと詳しく書いてみたいと思う。
これが「学校の締め」で歌わせて平気?歌わされて平気?でいるようなら、日本人の感性は崩壊しているとすらいえるから。
解説の前に、ここまで読んだ方で「ああ、特攻隊の歌って言いたいんだろ?」と考えた方。
確かに近い物がありますが、私はそんな感覚的に言うタイプじゃないです。
まず歌詞を引用します。
判りやすくするために冒頭に数字を追記します
作詩:森山直太朗・御徒町凧 作曲:森山直太朗
1 僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を
2 さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ
3 どんなに苦しい時も 君は笑っているから
4 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
5 霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる
6 さくら さくら 今、咲き誇る
7 刹那に散りゆく運命と知って
8 さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今
9 今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
10 輝ける君の未来を願う 本当の言葉
11 移りゆく街はまるで 僕らを急かすように
12 さくら さくら ただ舞い落ちる
13 いつか生まれ変わる瞬間を信じ
14 泣くな友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ
15 さくら さくら いざ舞い上がれ
16 永遠にさんざめく光を浴びて
17 さらば友よ またこの場所で会おう
18 さくら舞い散る道の上で
1?4 は、他愛もない前提を歌っているようですが、1を良く読むと
送り出す人は「僕ら」で、送られる側が「君」ということになっています。
少なくとも、同じ境遇の者同志お互いが別れるという状況ではない。
「僕ら」側の各々には別れはないけど、「君」とは別れなければならない状況。
だから「僕ら」は、いつか「君」と再会できることを願っている。
無理に学校にあてはめて、「僕ら」が在校生、「君」が卒業生だとする。
しかしそれだと、在校生はどこで待っているというのだろうか?
だから、このような解釈は無理。
「君」といっているところ、8で「友よ」と言っているところから考えると
「僕ら」も「君」も殆ど同じ境遇であるということ。
しかし、8で判る様に、先に「君」を送り出さなければ行けなくなってしまっている。
5?7 は、ちょっと後回しにしますが、9?10は大問題です。
「今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉」
つまり、「君」の未来を知った「僕ら」は、過去に「偽りの言葉」をかけた。
今、先に送り出す「君」に対して、本心ではない言葉をかけた。
輝ける君の未来を願っていない、嘘の言葉をかけたと言うこと。
仮に、本当に「君」の未来が素晴らしいものだとすると、未だに言えない本当の言葉とは何?
また会おうと言っている友に、本当の輝ける君の未来を願っていない言葉で送り出している。
ある出来事に対して、送別が行われている状況。
偽りの言葉と本当の言葉は、どちらかが「行くな」で、どちらかが「行ってらっしゃい」。
言ってしまった言葉は偽りの方、本心は言えていない言葉。
送り出す状況として、未だに「行ってらっしゃい」を言えていないとすれば、
「また会おう」にかからない。
だから、言えている偽りの言葉の方が「行ってらっしゃい」で、「君」の未来を願って言うべき言葉は「行くな」。
ある別れの出来事は、輝ける未来がない出来事なのに「行ってらっしゃい」と送り出さなければならなくなっている。
この偽りの言葉を言わざるを得ない状況を、「君」も理解している。
だから(14)「君」は泣いているんだけど、あのツラ時と同じように「笑顔」で別れよう、と。
??
確かに、卒業式は、今までの環境との決別だから、別れは辛い。
そこに、ほんの少しオーバーラップする気持ちもわかる。
でも、ここまで読み込んでいったときに、もっともっと壮絶な別れであることに気が付くはず。
そして、歌詞の中の「さくら」は、ただの景色表現だろうか?
ただの景色表現にしては、すさまじい描写で、直接的だ。
これは、「君」の擬人表現ではないか?
??
この曲は、元々は、アルバム収録だった1曲。
それが、わざわざシングルカットされているのだが、このジャケットは卒業式には程遠い。
このジャケットを見てもなお、卒業式で歌うにふさわしいだろうか?
これ。。。。
喪服
ですよ。
卒業式にうたう歌ベストテン。
そこに、あの問題作、森山直太朗の「さくら(独唱)」が入っていた。
さて、これが実際には何位になっていたのか?なんと2位だ。
なぜ問題作なのか?
いや、正しくは問題作ではなく、聴く側の理解不足といえる。
去年の4月のブログにもこの件は書いているが、もっと詳しく書いてみたいと思う。
これが「学校の締め」で歌わせて平気?歌わされて平気?でいるようなら、日本人の感性は崩壊しているとすらいえるから。
解説の前に、ここまで読んだ方で「ああ、特攻隊の歌って言いたいんだろ?」と考えた方。
確かに近い物がありますが、私はそんな感覚的に言うタイプじゃないです。
まず歌詞を引用します。
判りやすくするために冒頭に数字を追記します
作詩:森山直太朗・御徒町凧 作曲:森山直太朗
1 僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を
2 さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ
3 どんなに苦しい時も 君は笑っているから
4 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
5 霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる
6 さくら さくら 今、咲き誇る
7 刹那に散りゆく運命と知って
8 さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今
9 今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
10 輝ける君の未来を願う 本当の言葉
11 移りゆく街はまるで 僕らを急かすように
12 さくら さくら ただ舞い落ちる
13 いつか生まれ変わる瞬間を信じ
14 泣くな友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ
15 さくら さくら いざ舞い上がれ
16 永遠にさんざめく光を浴びて
17 さらば友よ またこの場所で会おう
18 さくら舞い散る道の上で
1?4 は、他愛もない前提を歌っているようですが、1を良く読むと
送り出す人は「僕ら」で、送られる側が「君」ということになっています。
少なくとも、同じ境遇の者同志お互いが別れるという状況ではない。
「僕ら」側の各々には別れはないけど、「君」とは別れなければならない状況。
だから「僕ら」は、いつか「君」と再会できることを願っている。
無理に学校にあてはめて、「僕ら」が在校生、「君」が卒業生だとする。
しかしそれだと、在校生はどこで待っているというのだろうか?
だから、このような解釈は無理。
「君」といっているところ、8で「友よ」と言っているところから考えると
「僕ら」も「君」も殆ど同じ境遇であるということ。
しかし、8で判る様に、先に「君」を送り出さなければ行けなくなってしまっている。
5?7 は、ちょっと後回しにしますが、9?10は大問題です。
「今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉」
つまり、「君」の未来を知った「僕ら」は、過去に「偽りの言葉」をかけた。
今、先に送り出す「君」に対して、本心ではない言葉をかけた。
輝ける君の未来を願っていない、嘘の言葉をかけたと言うこと。
仮に、本当に「君」の未来が素晴らしいものだとすると、未だに言えない本当の言葉とは何?
また会おうと言っている友に、本当の輝ける君の未来を願っていない言葉で送り出している。
ある出来事に対して、送別が行われている状況。
偽りの言葉と本当の言葉は、どちらかが「行くな」で、どちらかが「行ってらっしゃい」。
言ってしまった言葉は偽りの方、本心は言えていない言葉。
送り出す状況として、未だに「行ってらっしゃい」を言えていないとすれば、
「また会おう」にかからない。
だから、言えている偽りの言葉の方が「行ってらっしゃい」で、「君」の未来を願って言うべき言葉は「行くな」。
ある別れの出来事は、輝ける未来がない出来事なのに「行ってらっしゃい」と送り出さなければならなくなっている。
この偽りの言葉を言わざるを得ない状況を、「君」も理解している。
だから(14)「君」は泣いているんだけど、あのツラ時と同じように「笑顔」で別れよう、と。
??
確かに、卒業式は、今までの環境との決別だから、別れは辛い。
そこに、ほんの少しオーバーラップする気持ちもわかる。
でも、ここまで読み込んでいったときに、もっともっと壮絶な別れであることに気が付くはず。
そして、歌詞の中の「さくら」は、ただの景色表現だろうか?
ただの景色表現にしては、すさまじい描写で、直接的だ。
これは、「君」の擬人表現ではないか?
??
この曲は、元々は、アルバム収録だった1曲。
それが、わざわざシングルカットされているのだが、このジャケットは卒業式には程遠い。
このジャケットを見てもなお、卒業式で歌うにふさわしいだろうか?
これ。。。。
喪服
ですよ。